悪性リンパ腫最期の時

【最期の時】を改めて書き起こすのは辛い作業なので、別運営している個人サイトの日記から、そのまま抜粋させてもらいます・・・。

突然の宣告

2007年4月11日

6時過ぎ、夕食を食べようとしていると、弟から電話があった。『お母さんが危ないって。会いたい人に今のうちに会わせておくように言われたんだって・・・。今週いっぱいかも・・・って。』弟もかなりパニックになっていた。え?何言ってるの?って思った。何で?どういうこと?

その少し前に父が主治医の先生から呼び出しを受けたらしい。肝臓や骨髄に転移が見られる。お母さんの今の全身状態、血液の状態などからして、ドナーも見つかっていないし、これ以上、抗がん剤を投与することができないということだった。
そんな・・。弟からの電話を受ける瞬間まで、もう少し待てばドナーもきっと見つかって、移植を受けて、元気な母に戻れると信じて疑ってなかったのに・・・。『嘘だ~!』『お母さ~ん』『嫌だ~!』大声で泣き叫んだ。
お母さんがいなくなってしまう・・・。何でお母さんが助からないの?あんなに強いお母さんなのに。嫌だ。怖い。どうしたらいいの・・・?

急いで帰省の準備に取り掛かる。でも頭が働かない。無意味にウロウロしてばかりだったように思う。そのうちダンナが帰ってきた。お母さんのことを話す。また大声で泣いてしまった。パニックで思うように準備が進まない。9時になってやっと家を出ることができた。

実家の近所の仲良しさんから電話がかかってきた。状況を知って、すぐに母のところへ会いに行って来て、その時の様子を教えてくれた。
先生が機転を利かせて、『良かったな~。お姉ちゃんがドナーになってくれて、移植が受けられる事になったぞ。』と言うと、すごく喜んでいたらしい。『やっとこれで治るんだ・・・』そう言ったらしい。
体はボロボロ、意識も朦朧、こんな状態になってしまっているのに、自分は絶対に治るんだと信じている。本当に強い母だと思う。こんなに治りたがっているのに・・・なぜ?

午前1時前に出雲に到着した。父としばらく話し込む。もうすぐGW、兄弟3人が揃うので、血液検査を受けてみようと話し合っていた。親子間の1座2座不一致移植の成功例を知っていたから、望みがあるかもしれないと考えていた。こういう状況になったのなら、明日すぐにでも受けたい。
今、ドナーがいたとしたら、移植に踏み切れる可能性はないんだろうか?父も同じようなことを考えていたのか、先生に聞いたらしいけれど、今の全身状態では移植を乗り越える事は不可能だろうということだった。道は完全に閉ざされてしまった。

30日に母は腹部のエコー検査を受けていた。『移植前の全身チェックなのかな~?』って電話で話していたのに、それは肝臓の異変を見るためのものだったんだ・・・。
1週間前に帰省していた時、点滴ボトルに書かれた初めて見る名前の薬が気になったから、弟に調べてもらったら肝臓の薬だった。何でだろう・・・と弟と話をしていた。でもこれで全て分かった。こういうことだったんだね・・・。

布団に入るが、一睡もできない。できるわけがない。

母と対面

2007年4月12日

父からの連絡を受けた、伯母たちが高知から駆けつけてくれた。午前3時頃には到着するのでは?と思い、待っていたけれど、来たのは午前5時過ぎだった。時間潰しをしていたらしい。来てくれるだけでありがたいのに。いつものことながら遠慮なんてしなくていいのに・・・。

今日は兄夫婦も帰省。9時40分着の飛行機で帰ってくるので、私と子供たちは迎えに行き、父と伯母たちは先に病院に向かった。10時半前、病院に到着。
1週間ぶりに会った母。1週間前とは明らかに変わってしまっていた。黄疸が出て目は黄色、焦点は合っていないし、話もほとんどできない。『暑い』『痛い』『お水』意思表示は自発的にちゃんとしてくれる。
伯母たちが来てくれたので、本当に嬉しそう。一旦、伯母たちは退室して食堂にいたんだけど、『高知の人たちは?』と、まだ会いたそう。急いで伯母たちを呼びに行った。

『終わった?』としきりに聞いてくる母。移植のことを聞いているらしい。『大丈夫。終わったよ。もうすぐ体も回復してくるよ。』安心させてあげたい一心でついてしまった嘘。でもこんな嘘ならいいよね。

翔大と祐真の顔を見ると、母が笑った。口元がニッコリした。バイバイと手も振り返してくれた。
11時過ぎ、伯母たちは帰って行った。明日、仕事があるから・・・と。でも本当はもっと側にいたかったに違いない。来てくれてありがとう。本当にありがとう。

これからは母を1人ぼっちにしないことにした。交代で誰かが母の側にいてあげることにした。昼過ぎ、一旦、家に戻り、寝泊りグッズを準備して、再び3時頃に病院に戻った。母は『眠れないのよ』と言いながらトロトロ眠り始めたので、子供たちを屋上に連れて行った。
母に不信感を与えたくないと仕事に出掛けた弟にメールをする。仕事に行ったって、仕事にならないでしょうね、きっと。母のところへ来たかったはず。
4時半過ぎ、一旦、家に戻り、子供たちをお風呂に入れ、食事の準備。
6時半頃、ダンナが広島から来てくれた。

7時半過ぎに病院に戻る。夕食を結構食べたみたいだけど、水を飲んだら吐いてしまったらしい。せっかく食べたのに残念だったね・・・。
とにかく母は『暑い』を連発するので、団扇で扇いであげる。足も痛いらしく、さすってあげると気持ちが良いみたいなので、しばらくさすってあげる。さすってあげるだけで、簡単に内出血してしまう。
気持ちよくなるとスースー眠り始める。でも手を止めると、しばらくすると寝苦しくなって目を覚ましてしまう。それの繰り返しだった。

『早く寝たい・・・』と母が言うので、11時頃、睡眠薬を入れてもらった(呼吸抑制作用があるので、出来れば使わないほうが良いらしいんだけど・・・)。薬のおかげでよく寝ているけれど、やはり不快感があるのか、手がゴソゴソとよく動く。胸元へ行ったり(暑い)、足の方へ行ったり(痛い)。
午前3時半、一旦家に戻り、仮眠を取った。

祖父が来る

2007年4月13日

7時、軽く朝食を摂って、病院に戻り、一晩病院で過ごした兄と弟と付き添いを交代した。
母はグッスリよく眠っている。そんな姿を見ていると、ホッとする。7時半過ぎ、先生が来る。『うっち~、おはよ~。』あの大きな声でも、母は爆酔。
8時頃、目が覚めたので、看護師さんに来てもらって朝食にした。味噌汁を2口、お粥を1口でごちそうさま。

ごはんを食べさせてくれた看護師さんが、いろんな話を聞かせてくれた。
『お母さん、いつも1人で寂しがっていましたよ・・・』と。母はいつも『そんなに度々来てくれなくていいよ』言っていた。私たちのことを気遣っての言葉だし、強がりを言ってることは分かっていた。でもやっぱり看護師さんに愚痴るくらい本当は寂しかったんだね・・・。こんなに辛くて大変な治療を1人で受けさせてしまった。どれだけ心細かったことだろう。
『私は高知から嫁いで来ていて、親のところへもなかなか行ってあげられない』そんなことも話していたらしい。私も母によく言われた。『遠くにいると、お互い何かあった時に大変だよ』と。それなのに、私は2年半前まで近くにいたのに、わざわざ遠くへ出て行ってしまった。出雲という土地から逃げたかったばかりに・・・。
昨夜、私たち兄弟3人が泊まっていたことも分かっていたみたい。『うれしい』って。『これからはずっと一緒にいるよ。1人にはさせないからね。』そう言って安心させてあげた。朝食でお腹が満たされたのか、またウトウトし始めた。

10時半頃、みんなが病院に来たので、私はダンナの実家へ出掛けた。今まで母から堅く口止めされていたけれど、もうこんな状況になってしまったので、話をしておかなければ・・と思って、全てを話した。
12時頃、病院に戻り、午後からの付き添い計画を立てる。弟、兄嫁が残り、家で休んでいた兄も来ることになったので、一旦、家に帰った。
昼食、洗濯、入浴、夕食の買い物などを済ませ、4時に病院に戻った。近所で仲良くしてもらっている人たちが3人来てくれていた。昼間、家に帰っていた時に、そのうちの1人に母の様子を報告に行ったので、その後、みんなに声を掛けて来てくれたらしい。11日の夜もそうだったけれど、本当にありがたいこと。座ったままの姿勢で1時間くらい話をしていた。『疲れん?』と聞くけど、座っている方が良いらしい。

5時過ぎ、祖父たちが到着。祖父は今日になって、母の病気のこと、そして今の状況を知ったらしい。母の手を握ったり、頭を撫でながら、『可愛そうに・・』と目を真っ赤にしていた。『分かるか?』と言うと、母はうなずいて、ずっと祖父の顔を見つめていた。やっと会えたね。母もずっと会いたがっていた。でも心配をかけたくない一心で、連絡も取れなかったし、会うことも出来なかった。会えて良かったね。

祖父も最近、母からの電話や荷送りが無いので、少し気になっていたらしい。仕事が忙しいのか、孫(翔大・祐真)のことで手一杯なのか・・・、そう思っていたらしい。まさか闘病中だったなんて、夢にも思わなかったよね。隠していてゴメンね、じいちゃん。でもお母さんも元気になってから高知へ顔を見せに行くつもりだったんだよ。つい数日前まで、私もそのつもりだったんだから・・・。
1時間半、病室で一緒に過ごした。今日のうちに帰るらしく、7時頃、高知に向かって出発した。じいちゃん、大丈夫かな・・・。お母さんのこと、あとは私たちに任せてね。

母は夕方からの立て続けの来客に少し疲れたのか、6時半頃から眠っている。よく眠っているので、私も横になる。2晩ほとんど寝ていなかったし、母がよく寝ているのを見て安心したら、私も眠くなってきた。いつの間にか寝てしまい、気がつくと弟と入れ替えに兄が来ていた。ひたすら眠かった。1時頃目が覚めると、母は鼾をかきながらよく寝ていた。
ずっとこのままでもいいかな・・・。母が苦しくないのなら。体力・精神的にも、それに兄や弟は仕事もあるし、私はダンナの協力の下でのことなので、この生活がいつまでも続けられるか?と言えば、正直なところ難しい。でも母の側にいたい。母に側にいてもらいたい。

day -3

2007年4月14日

7時頃、弟が来る。母もほぼ同時に目が覚める。口が『暑い』と動いた。昨夜は少し肌寒く、母の手足が冷たかったので布団を掛けて寝ていたんだけど、布団を剥ぎ取り手足を触ると熱かった。体温は37.3℃だった。36℃前後の体温の母にしては、高い方かな。
足に湿布を貼ったり、氷水でタオルを冷やして額に当てたりした。でもタオルは嫌がって、払い除けられてしまった。代わりに氷水で手を冷やして触ってみると『気持ち良い』らしかったので、しばらく続けた。

8時頃、先生が来る。血圧も酸素濃度も心音も良し。今から広島に出張で、明日のお昼頃に帰ってくるらしい。『うっち~、良い子で留守番してろよ。』と言うとうなずいた。
呼びかけると、その時は目を開けて反応してくれるけど、またすぐに寝てしまう。こうやって眠っている時間が長くなり、目が覚めなくなってしまう時(昏睡状態)が来るんだろうか・・・。

看護師さんが何度も朝食を聞きに来てくれていたけど、母がなかなか起きないので、9時になって部屋のカーテンを開け、光で刺激して起こした。
ちょっと遅めの朝食。ヨーグルトを5口くらい食べたかな。むせることも無く、上手に飲み込むことができる。今日の昼から病院食を止めることにした。母が食べたい時に食べたいもの(ヨーグルトやプリン)を食べた方が良いだろう・・・ということで。
朝食が終わると、すぐにまた寝てしまった。

今朝から右首筋、耳の下辺りを痛がる。さすってあげると少し楽になるみたい。看護師さんに聞いてみると、そこにはリンパ節があり、リンパ腫の細胞が溜まりやすいので、それが原因ではないか?ということだった。つまり、どんどん全身に広がっていってる・・・ってこと???
さすってあげながら『どう?気持ち良い?』と聞いてみると、『うるさいなぁ』と嫌そうに言われてしまった。その場にいた弟と目を見合わせてキョトンとしてしまった。声のボリュームが大き過ぎたのかな?それとも眠いから話しかけないで欲しかったのかな?今度から気をつけよう・・・。
『うるさい』事件があったので、要求があれば応えるようにし、あまり必要以上に話しかけないようにしていた。

10時過ぎ、翔大と祐真も来た。翔大と祐真が話しかけた時の反応が1番ハッキリしている。『おはよう』と言い、手を振ってくれる。
でも翔大がなぜかグズグズで、『つまらない。早く遊びに行こう。おやつ食べよう。』と言うので、カチンときてしまい、『おやつ食べるために来たの?それならもう来るな!』とかなりきつく当たってしまった。大人気ない・・・。反省。それだけ心の余裕が無くなってしまっているのかな。
お昼過ぎ、私は一旦、家に戻った。

3時頃になってかなりハッキリ目が覚めたらしい。ちょうどその頃、父方の叔父や叔母たちが母のところへ行ってくれたらしい。その帰りに家に寄ってくれた。母に話しかけると、しっかり答えてくれたらしい。
母は『今、何時?』と聞くなど、今日は昨日と比べると不思議なくらいしっかりしている。『もう昼の3時過ぎだよ』と教えてあげると、『もうそんな時間なんだね』と母。
その後、お尻が痛いと訴える。寝たきりになり、母の【しっぽ】の部分が擦れて痛々しい状態になっている。体の向きを変えてさすっても、かなり痛みが強いらしく、看護師さんに助けを求めたらしい。いつもの向き(左向き)とは体を逆に向けたり、湿布を貼ったりで何とか落ち着いたらしい。
その後、疲れたのか、5時頃に私が病院に戻った時には夢の中だった。

8時頃、目を覚ます。今日は度々、耳の下を痛がっていたけれど、また痛み出したらしく、眠れなくなってしまったようだった。さすってあげるけれど、痛みで歪んだ母の表情はなかなか元に戻らない。
『痛い~。痛い~。』と大きな声で言う母。お産の時に大声で騒ぐ人が信じられない(もちろん母は無言で堪えたんだろうな・・・)と言っていたし、麻酔が効かないうちにメスで切られて(そんな人は滅多にいないだろうな・・・)じっと耐えたこともあるし、そんな痛みに強い母なのに、『痛い』を連発するなんて・・・。
しばらくさすってもなかなか治まらないので、痛み止めと睡眠薬を注射してもらった。30分くらいすると落ち着き、また眠った。

私も母が眠ったので、安心したら眠ってしまっていた。夜中、看護師さんが出入りするのも気がつかなかったり・・・。
ふと目を覚ますと、心電図計がつけられていた。いつの間に?って感じだった。いよいよ観察体制に入るんだろうか。どんどん尿の色が濃くなっていっているのが分かる(肝臓が悪いと尿の色が濃くなる)。麦茶みたいな色・・・。進行しているのかな・・・。

day -2

2007年4月15日

今朝も遅い目覚めだった。8時頃、看護師さんが来て、朝の計測をした。呼び掛けに反応するけど、直後またすぐにトロトロしている。寝ているのか、起きているのか、よく分からない。今朝も37℃と、少し熱があった。
昨夜から付けている心電図計だけど、兄によみ方の基礎知識を教えてもらった。それ以降、母に気になる動作があったり、ナースコーナーの前を通りかかる度に、数値をチェックすることにした。母は今、少々心拍数が高いらしい。

10時過ぎ、子供たちがやって来た。昨日の夕方から会っていなかったので、何だか久しぶり。
一昨日より昨日、昨日より今日、確実に反応が落ちていく母だけど、翔大にはものすごく反応を示す。『おはよう』・・・声は出ていなかったが、口がかなりハッキリ動いた。昨日来た時にだいぶんキツイことを言ってしまったし、あの後、ダンナからも叱られたみたいで、今日はいつもの、ばぁ大好きの翔大に戻っていた。
ちょうど母が暑がって、団扇で扇いでいる時に来たので、翔大も一緒に扇いでくれた。

お昼に一旦、家に帰った。お昼過ぎに先生が出張から戻るので、多分1番に母のところへ来てくれるだろうと思っていたので、いつ来ても良いように残っていたかったけど、いろいろ考えると1度戻った方が良いかな・・・と思って。急いで準備して2時頃に病院に戻ったけれど、1時頃に先生が来ていたらしい。
従姉から電話があった。今まで母のために健康食品のことを教えてくれたり、お守りをもらってくれたり、いろいろしてくれていたんだけど、今回は母をある団体へ入信させたということだった。父や私たち兄弟に断りもなく、事後報告になったことを申し訳なさそうにしていたけれど、全ては母を思ってしてくれていること。そんなこと少しも構わない。むしろそれだけ母のことを思ってくれていて、ありがたいと思う。
早速、パンフレットなどを速達で送ってくれるらしい。母のところへ、みんなの思いや不思議な力がきっと届くと思う。昨日、母が不思議なくらい元気だったのは、もしかしてそのおかげかもしれない。

病院に戻ると、弟が先生から聞いたことを報告してくれた。回診が終わって出て行った先生を追いかけて、聞いたらしい。

『母はあとどれくらいだと思いますか?』

一般的には、先日宣告されたように、4日前の時点であと3~4日かな・・・と判断する。でも母の場合は、肝臓はリンパ腫にやられてしまっているけれど、それ以外のところ(心拍や血圧など)がとてもしっかりしている。白血球が100前後ととても危険な状態なのに、感染症なども起こさずに頑張っている。だから今日、今でも、まだ体が持ち堪えている。生命力がとても強い人だ、と。
でも確実に肝臓が悪くなっていってる。今朝、看護師さんに血液検査の数値を聞いたら最悪だったし、日に日に濃くなる尿の色を見ていれば、素人でも分かる。

眠っている時間がだんだん長くなり、反応が薄くなっていく・・・。不快感はものすごく表すのに、それ以外(水が欲しい、体の向きを変えたい、など)はほとんどなし。今日は水分を数口とっただけで、食べ物を口にすることはなかった。母が食べたい時にすぐに食べれるように、部屋の冷蔵庫に常備するようにしたんだけどな・・・。
コミュニケーションを取ることが難しくなってきた。声もほとんど出ないし、手もほとんど動かせない。わずかな口の動きと表情などから察するしかなくなってきた。良かれと思ってしたことを、すごく嫌そうな顔をされることもあるし、母が何か訴えようとしているけれど全然分かってあげられない。
どう接して良いのか分からなくなってきた。私の母なのに。親子なのに。情けない。

明日から仕事に戻るため、兄は夕方の飛行機で東京へ。弟も明日は出勤(明後日以降は今のところ未定)。兄や弟と一緒だと、いろいろ心強かった。明日からは私1人。兄や弟の分まで頑張らなくちゃいけないな・・・。体力は大丈夫。自信がある。でも精神的には1人は辛い。つい、いろんなことを考えてしまうので。
看護師さんがやってきて、何か機械を取り付けている。何の機械だろう。酸素・・・じゃなさそう。吸引用・・・かな?何に使うんだろう?何で今、準備したんだろう?嫌な答えが返ってきたら・・・と思うと、少し怖くて聞けなかった。

よく眠っていた母が10時頃、目を覚ます。何か言いたそう。手があちこちに動く。肩や首のところへよく動く。顔を歪めることはないけれど、痛いってことなのかな?マッサージをしてあげると落ち着いた。
しばらくして突然大きな声で『○×△※』・・・何?分からないので、2回くらい聞き返す。それでも分からない。母の言った通りに真似てみたり、似たような発音の言葉に何があるか、しばらく考えてみた。やっと分かった『お水』って言っていたんだ。上体を起こした方が良いだろうと思い、看護師さんに助けを求める。
しかし寝たままで大丈夫らしい。何で?と思っていると、もう水飲みで飲ませるのは危険なので止めた方が良い、と。大きな綿棒みたいなものに水を含ませて、それを吸わせてあげた。何だかやりきれない気持ちになった。でも母は満足そう。満足してくれたんだから、それでいいじゃない・・・。
その後、体の向きを変えたいというので、横向きにしてあげた。しばらくするとまた眠りについた。11時頃だった。

1時頃、また目を覚ます。首の方へ手をやろうとする。『痛い?』と聞いても反応がなかったので、痛いと判断し、マッサージをする。時々、顔を歪める。この調子では眠れないだろうし、痛がるのは見ていて辛いので、看護師さんに助けを求めた。
看護師さんが睡眠薬と痛み止めを取りに行った間に、『○×△※』と大きな声で言う。私になかなか理解してもらえないので、頑張って大きな声を出しているのかもしれない。しばらく考えて、水かな?と思い、聞いてみると、『お水~』と。早いペースでたくさん欲しがるので、欲しがるままにあげたら、吐き気を催してしまったらしい。ゴメンね、やっぱり多すぎたかも・・・。しばらくすると落ち着いた様子。良かった・・・。
睡眠薬と痛み止めをしてもらい、2時頃、眠った。今度は朝まで眠れるかな・・。

day -1

2007年4月16日

4時半、ちょっと早いお目覚めだった。ゴソゴソ手が動き出した。手を動かすのは必ずしも痛みを訴える時ばかりではないけれど、首のところに手が行く時は、間違いなく痛み。やっぱり痛みで目が覚めちゃったんだ・・・。でもその手の動きも、だんだん鈍くなってきた。何を伝えようとしているのか、理解してあげることが本当に難しい。
『しばらく◎▲※□・・・』と母が言った。ハッキリ聞こえなかったけれど、私には『しばらく死ねない』か『しばらく(かも)しれない』と聞こえた。聞き返すのは止めた。
その後、水を欲しがるので、綿棒に含ませて飲ませてあげていたら、『何塗ってるの?』と言われてしまった。気管に入ると危険なので、1度に口に入る量をセーブするための綿棒なんだけど、母はもっとガブガブ飲みたかったのかもしれない。飲んだ気にならず、ちょっと不満だったのかな・・・。

7時頃、弟がやって来た。気分的にやはり仕事どころではなく、休みを取ったらしい。今日から1人だと思っていたので、私も心強い。
その後も母は何度も水を欲しがる。口に指を突っ込む・・・それが新しい『お水』のサインになった。昨夜ほとんど寝ていないので、眠たいのかな?と思いつつ、いろんなところが痛むようで寝るどころではなさそう。
毎朝のことだけど、高低の差はあるけれど熱がいくらかある。今朝は37.5℃だった。額に手を当てているので、『痛いの?』と聞くと『痛いに決まってる』と母。熱のせい?それとも脳にまで達してしまったのか・・・?

9時頃、先生が来た。心臓の音は今日もバッチリ。『昨夜は眠れたか?』と聞かれたので、『いろんなところが痛かったらしく、ほとんど眠れていません。』と代返。『薬を使おうか・・』ついに薬のお世話になることにした。
【薬=モルヒネ=麻薬】気持ちはちょっと複雑だけど、痛みや不快感で歪んだ母の顔は見たくない。母を苦しませたくはない。痛みが和らぎ、母がゆっくり休めるなら、これでいいのかな・・・。

10時からモルヒネの投与が始まった。しばらくすると母の表情が元に戻っていったので、効いてきたのかも。眠くなる成分も含まれているので、昨夜も寝ていないことだし寝るのかな?と思いきや、ほとんど起きている。あれ?と思ったけれど、どうせなら昼間よりも夜眠れた方が良いのかもしれない。

お昼前、昨日電話で聞いていた手紙が届いた。早速、開封してみる。母は目を開けてポーっとしていたので、見せてみた。見えているのか、見えていないのか、よく分からないけれど、じっと見つめていた。ちょっと見せる時間が長過ぎたのか、疲れてしまったようだった。いきなりやり過ぎたかな?次からは疲れないように、少しずつにしないとね・・・。気をつけよう。

午後、弟に言われて気がつく。母の尿の色は肝臓が悪い人特有の濃い色なんだけど、妙に赤過ぎる。それに管を通っている途中の尿の色(黄褐色)とバッグに溜まった尿の色(紅茶色)が明らかに違う。おかしいと思い、観察していると、赤い塊(血液と思われる)が管を通過し、それがバッグに落ちると赤い色がジワーっと広がっていくらしい。血尿か?
看護師さんに聞いてみると、弟の観察話から血尿であると推測できるが、それだけでは出血箇所を特定することはできない。血小板が激減しているので、どこから出血しても不思議はない。それを聞いて少しホッとした。
日に日に尿の色が濃くなっていってると思っていたし(肝臓が悪化している証拠)、もしかして腎臓までやられたのでは?とも考えていたから・・・。

ずっと起きていた母だけど、午後3時頃になってウトウト寝始めた。そこへシーツ交換と病衣交換が始まった。看護師さんが5人やってきて、一斉に作業を開始したので、あっという間に終わった。そしてドヤドヤ去っていった。まるで台風一過って感じ。終わると、何事も無かったかのように、またスースー眠り始めた。
4時過ぎ。今日もご近所さんが来てくれた。だけど母は爆睡中。話し掛けると瞼が少し開くような気もしたけれど、とにかく眠たくて仕方なさそうだった。母が寝たままだったので、『また来るよ』と10分くらいで帰って行った。母が気持ち良さそうに寝ているし、私も母と同じく昨夜はほとんど眠れてなかったし、お昼寝も出来なかったので、夕方から仮眠・・・のつもりが本気で寝てしまい、気がついたら7時になっていた。とりあえず夕食を取り、母の様子を観察するけれど、本当に気持ち良さそうにずっと寝ているので、安心してまた寝ることにした。寝れる時に寝ておかないとね。
また寝込んでいて、その間、何度か看護師さんが測定に来ていたようだけど、起き上がる元気が無かった。

11時頃にも、看護師さんがやってきた。今日は朝から血圧が少々低いので、要観察なのかもしれない。血圧を上げるための薬を継続して投与していたけれど、今朝までは10mmずつだったのに、昼頃には11mm、その後12mm、13mm、15mm・・と増量。でもあまり血圧が上がってこないので、11時の時点で17mmに増量になった。
酸素濃度も今までは90%を切ることはなかったのに(90%以下だと息苦しさを感じ始めるらしい)、86と少し低め。酸素吸入を始めた。体温は37.3℃だった。

day 0

2007年4月17日

頻繁に看護師さんの出入りがある。15分おきくらいだったと思う。こんな状況なのに、これまでの疲れのせいか、私は眠気に襲われていた。変な夢を見ていた。母の夢だった。内容はハッキリ覚えていないけれど、母が何か訴えかけてくる夢だった。嫌な予感がして、ハッと目が覚めた。

0時30分だった。『娘さんですか?ご主人(父)に連絡がつきますか?』目が覚めた私に看護師さんはこう言った。
昨日からかなり血圧が低下してきて、それに伴い血圧の薬も増加していっているが、なかなか上がってこない・・・つまり、薬が効かなくなってきているので、このまま低下し続けて心肺停止になるのは時間の問題ということだった。
寝ていた弟を起こし、この状況を説明し、私は父を迎えに家に帰った。母はよく寝ていたんじゃなくて、昏睡状態レベル5(昏睡度を表すレベルは1~5まである)だったんだ・・・。
『薬をさらに増量して、血圧の回復を期待する方法があります。でも血圧が上がり過ぎた場合、心臓に負担がかかり、マイナスになります。どうしますか?』廊下で看護師さんにこう話し掛けられた。兄が帰って来るまでは何とか頑張って欲しい・・・という思いがあったので、薬をさらに増量するという【賭け】に出た。22mmずつの投与が始まった。

5時過ぎ、血圧が上がり、心拍数が150に・・・少し上がり過ぎた。すぐに19mmに減量された。
血圧が低い状態が続いていたので利尿剤の投与を控えていたけれど(利尿剤は血圧低下を招く)、この時点ですぐに投与された。母のように解毒工場である肝臓が正常に機能しなくなると、全身に毒素が回ってしまう。少しでも多くの毒を体外へ排出するためには、利尿剤はとても重要になってくる。

5時20分、脈が弱いと言われる。つまり心臓の鼓動が弱くなっているということ。呼吸がいつ止まるか分からない状態になってしまったので、注意深く観察するように看護師さんから言われた(呼吸と心肺が同時に停止するとは限らないので、呼吸停止だけなら対処法があるという意味でそう言われたんだと思う)。
母の胸の高さに目線を合わせ、胸が上下に動いているかどうか要観察の開始となった。

5時45分、心拍は45~50の間をウロウロしている。一旦、減量していた血圧の薬を再び21mmに増量する。
しかし、今回はなかなか上がってこない。呼吸の度に上下に動いていた胸の動きも、少しずつ分かりにくくなってきた。

6時を回った。兄は朝1番の飛行機で帰ってくる。9時40分、出雲空港着。空港から病院までの移動時間を考えると、早くても10時を回る。何とか頑張って欲しい・・。
時間がなかなか経たない。気ばかり焦る。弟がトイレ休憩で部屋を出た。

それからしばらくして、母の胸の動きが止まったように見えた。目を凝らしてみるけれど・・・動きがない。
すぐに父にも確認してもらう。それとほぼ同時に看護師さんが部屋に入ってきた。続いて弟が『(心電図のモニターの数値が)ゼロだ!ゼロになってる!』と叫びながら入ってきた。
『母が息をしていないみたいなんですけど・・・』と言う私に、看護師さんは『今、先生が来ますから・・・』とうつむいたまま。間もなく、先生が入ってきた。母の手首に触れ脈を確認する。そして瞳孔を確認する。『残念ですが・・・6時30分、ご臨終です。』スーっと、まるで眠るように静かに息を引き取った。

母にすがりついて泣き崩れた。嘘だ。あの強い母が死ぬわけがない。一体、何が起こってるの・・・?不思議な感覚に襲われた。
兄にもすぐに連絡を入れる。兄は羽田行きのモノレールの中だった。こんなはずじゃなかったのに、間に合うように見極めて連絡入れるつもりだったのに、ごめんね・・・。

母を連れて帰るために、着替えや毛布を取りに弟と家に戻り、母の布団を用意して、急いで病院に戻った。母の帰り支度(エンジェルケア)を手伝わせてもらうように申し出たところ、快く了承してくれたので、看護師さん2人と一緒に準備をした。外泊で家に帰る時、よく着ていた服を持って来た。
病衣を脱がせて背中を拭く時に、肌色の部分を探すのが難しいくらい内出血だらけだった。痛々しいけれど、母の頑張った印(しるし)。本当によく頑張ったね・・・。すごいよ。母が病院と自宅の行き来の時に、いつも被っていた黒い帽子を被せてあげた。

8時30分、寝台車が迎えに来たので、病棟職員に見送られながらエレベーターに乗った。もうここに来ることはない。病院の裏口からの退院になった。最後にもう1度、先生と看護師さんにお礼を言って、病院を後にした。表玄関から笑顔で退院したかった・・・。

9時前、無言の帰宅。なぜこんな姿で・・・?なぜ?なぜ?だらけ。
布団に寝させてあげると、すぐに化粧に取り掛かった。美容部員という仕事柄、いつもきれいにしていた母。約1年の闘病で肌の手入れはできていなかったし、放射線のやけどの痕もあったので、下地からしっかりしてあげた。他人に化粧をするなんて初めて。難しかったけれど、一生懸命した。
去年の6月初め頃だったと思うけれど、脱毛対策に買ったかつらを着けてあげた。まさかこんな場面で登場するとは思わなかった。でもとても安らかな顔で、髪の毛まであったら、本当に寝ているみたい。もうすぐ起きてきそうな感じがした。

悲しみに浸ってばかりいられない。こうなったからには、母をきちんと送り出してあげることも考えなくてはいけない。私の実家では初めての仏様なので、何をどうして良いのか全く分からなかったけれど、葬儀屋さんに連絡をして、すぐに段取りに入った。
まず1番に日程。この出雲地方では火葬→葬儀というのが一般的らしい。でもそれは絶対に嫌だった。最後の最後まで顔を見ていたい・・・。父や兄弟3人が同じ考えだったので、話は早かった。 18日通夜、19日葬儀となった。
次に問題なのはどこのお寺にお世話になるかということ。お墓の問題があるし、宗派云々ではなく、出来れば近いところが良いと思っていたら、仲の良いご近所さんがお世話になっている、近くのお寺に墓地の空きがあるらしいことが分かり、そこに決まった。さすがはプロだけあって、葬儀屋さんの迅速な対応で次々決まっていった。

母は遺言書などは残さなかったけれど、生前、私にいろいろなことを話していた。もし自分が死んだら、こうして欲しい・・・ということがいくつかあった(今回の病気で死ぬということではなく、将来的に死んだ時には・・・という仮定での話だったが)。

  • 葬儀は地味で良い。質より量ではなく、少人数で良いので親しい人だけに見送られたい。
  • 変な飾りはいらない。生花でいっぱいにして欲しい。
  • 遺影の写真は白黒や合成(着せ替え)は嫌。スナップ写真で作って欲しい。

全て叶えてあげられることになった。親戚・他人を問わず、親しい人にしか連絡をしないようにした。祭壇そのものは控えめにし、その代わり、たくさんの生花で豪華に飾ることにした。遺影に使う写真は兄弟皆で選んだ。翔大を抱いて微笑んでいる写真・・・。暗くならないようにフレームも白いものを選んだ。

母は家に帰ってきた時はまだ温かかったけれど、だんだん冷たくなってきた。でも肌は柔らかく、いつものまま。
病院で最後に泊り込んでいた日々もそうだったけれど、母がどんな状況になろうと母には代わりないわけで、側にいると安心できた。いろんな準備でバタバタするけれど、手が空いた時には、常に母の側にいるようにした。少しでも長く側にいたかった。

午後9時頃、高知から伯母(母の1番上の姉)、伯父、従兄の3人が到着した。母の訃報を受けて、いてもたってもいられなくなったらしい。少しでも長く、母の側にいてやりたいのだと・・・。今夜は母と一緒に寝たいと言うので、私も同じ気持ちだったけれど、姉妹水入らず、伯母に任せることにした。
明日からまた忙しくなる。まだまだ体力勝負。睡眠薬を飲んで布団に入った。

通夜

2007年4月18日

今朝も早くから何をするわけでもなくバタバタ。明日の葬儀の準備がいろいろある。提出する書面なども締め切り○時まで、とかあったりして、常に時間に追われていた。悲しんでいる暇が無いくらい、裏方仕事があるんだな・・・と驚きがあった。午前中、兄弟3人で注文していた生花が届いた。母の周りが一気に華やかになった。

お昼前後から次第に伯父や伯母たち、従兄弟たちが順次到着し、賑やかになった。祖父も到着した。母の姿を見て絶句していた。『1番の娘だったのに・・・。』そう呟いた。
高知の高校を卒業後、親元を遠く離れて東京で就職した母は、距離が離れていた分、気を使って祖父にはいろいろしていたらしい。そんな気遣いが祖父は嬉しかったんだろうな・・・。

午後5時から入棺だった。今まで布団で寝ていたから、ただ寝ているだけだったのに、こんな箱に入ってしまったら・・・。可愛そうで涙が止まらなくなった。でも仕方がない。みんなで棺に入れた。
母は背が高かったし、爪先立ちをしていたので、ギリギリの大きさだった。服はそのままで、上から白い着物を掛けてあげた。足が寒そうだったので足袋を履かせてあげた。棺の中に母の好きだったアンパンや手芸道具、仕事先のお客さんに折ってもらった千羽鶴などを入れた。

午後7時、通夜が始まった。『お疲れでしょう。少し短縮します。』と言うご住職の言葉で、短めに終わった。
《花春典雅大姉》と書かれた位牌。通夜が始まる前、それを見た瞬間にハッとしたんだけど、母のことをとてもよく表している・・・。でもなぜ?その謎の解説があった。お寺を決める際に、ご近所さんにいろいろ話を聞いたりして、このお寺になったんだけど、そこの奥様がご住職に母のことをいろいろ話してくれたらしい。
花が大好きで、いつも庭には花があふれていたこと《花》、いつも小奇麗にしていたこと《雅》。そして今、季節は《春》。仏教の言葉に《花春》という言葉があるらしい。そして母の名前の一字を取って《典》。とても素敵な名前を付けてもらえて良かったな・・・と、心からそう思った。戒名なんて興味無い・・・生前そう言っていた母も、きっとそう思っているのでは?

明日には葬儀、火葬を控えている。母の姿があるのは、残りわずかになってしまった。そう考えると寂しさがさらに募ってきた。ずっと母の側にいたいのに・・・。
でももう時間が無くなってきた。今夜は母の側で夜を明かした。

葬儀

2007年4月19日

朝から落ち着かない。11時出棺なので、ここにいられるのは、あとわずか・・・。やりきれない。

11時、近所の方々に見送られ、葬祭会館に向かった。葬祭会館に着くと、まず目に付いたのが、母のメモリアルコーナー。昨日のうちに預けておいた母の思い出の品が並べられていた。母が初任給で買ったという身長50cmくらいのキューピー人形。母が4歳頃の写真。叔父が家で見つけて、パソコンで綺麗に修復してきてくれた。母が作った布製のウサギの人形たち。母が闘病中に使っていた、私が作った帽子、私が買ってあげたキティちゃんの杖。そして輸血を受ける母の写真、自家移植で無菌室に入っていた時の母の写真・・・。
葬儀についての説明があったので、会場に入った。注文通り、色とりどりの生花で綺麗に飾られていた。まるで結婚式の会場のよう。母の望み通りにできたんじゃないかな・・・。喜んでくれているかな・・・。

午後1時、葬儀が始まった。また不思議な感覚に襲われた。今日は一体、誰の葬儀?母?え?お母さん死んじゃったの・・・???悲しみと不思議な感覚でグチャグチャだった。
そうこうしているうちに葬儀が終わり、みんなで棺の中に生花を入れてあげた。隙間無く、蓋が閉まらなくなりそうなくらい、たくさんの花を入れた。翔大も祐真もたくさん入れてくれた。ばぁ、喜んでいるよ・・・。いつまでもこうしていたかった。斎場に行くのが怖かった。棺の蓋が閉じられると、また強い悲しみに襲われた。

午後3時の最終火入れの少し前に斎場に到着。最後のお別れをした。本当にお別れなの?最後に顔を見せてもらった。お母さん、起きて。まだ間に合うよ・・・。もう顔が見れなくなっちゃう。寂しいよ。
祐真は母のこと、覚えていないだろうな・・・。でも超ばぁっ子だった翔大には、今日のお別れのことを少しずつ話していた。母が助からないと分かった時、『もう病気が治らないんだよ。もうすぐ会えなくなるんだよ。』と話すと、『僕が治してあげるのに。』と言った翔大。母が死んだ時、『もうばぁはお話できないけど、翔大の声は聞こえるからね。』と話すと、不思議そうな顔をした翔大。
『これで本当に最後だよ。もうお顔が見れなくなるんだよ。もうお空に出発なんだよ。』まだ半分分かったような分かっていないような翔大だったけれど、母の棺が扉の向こうに入り、扉が閉まった瞬間、少し理解できたのか、表情が硬くなった。
父がすごい勢いで、点火スイッチを入れた。躊躇ったら、押せなくなってしまっていただろう・・・と思う。

お母さん、ありがとう。お母さんの子供に産まれて本当に良かった。
何でも出来る自慢のお母さんだったよ。お母さんの分まで、これから頑張るよ。しっかり生きるよ。だからもう後のことは心配しないでね。お母さんみたいには、とてもじゃないけどなれない。
でも少しでも近づけるように頑張る。お母さんは私の目標だったから・・・。大好きだったよ。本当にありがとう。

90分後、母はとても小さくなって出てきた。え?これだけ?って思った。母の場合は、この1年で体がボロボロになってしまったから、そのせいもあるのかもしれない。
『ばぁが出てきたよ』・・・骨になった母を見て、翔大の顔が引きつった。台の下を覗き込むようにして、『ばぁはどこ?』と翔大。『お空に行ったんだよ。いなくなったんだよ。』そう言うと、目に涙を溜めていた。
少しでも多くの母を連れて帰りたくて、右手が不自由な父の分まで、兄弟3人で一生懸命拾った。

5時過ぎ、小さくなった母を連れて、家に戻った。続いて初七日の法要があった。病魔に制されて悔しいし、悲しいんだけれど、もうどうしようもない。まだ信じられない。でも、『良いところへ行ってね・・・』今となっては、そういう風に願うしかない。
たくさんあった来客も1人減り2人減り、いつものメンバーに戻った。『姿が見えなくなっただけ。側にいるし、見守ってくれている。』そう従姉が言ってくれた。でもその『姿が見えない』というのが、今は1番辛い。仕方ないか・・・、今はまだ。

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