悪性リンパ腫母を失ってから2007年4月~

死という文字に・・(2007年4月)

毎日泣き暮らしていました。寝ている時以外は涙を流していない時の方が少なかったと思います。家にいる時なら良いのですが、所構わず涙が溢れてくるのにはちょっと困りものでした。
外出している時くらい母のことを考えるのは止めようと思っても、上手くはいかないものです。母娘が仲良く買い物なんてしていれば、あぁ・・・どうして私は・・・と、とにかく何でも母に結びついてしまうのです。

人が亡くなると本当にたくさんの諸手続きがあります。亡くなった3日後くらいに必要な書類を取りに市役所を訪れ、住民票(除籍票)に書かれた【死亡】という文字を見て絶句したのを覚えています。信じたくない・・・でもこれは現実なんです。
しばらくは何かにつけ、【死】という文字に怯えていました。

死後のいろいろ(2007年4月末~5月初め)

母は私の実家で初めての仏様になったので、何もかもが初めてのことでした。当然、仏壇やお墓なんて持っていませんでしたので、仏壇店を回って仏壇を探したり、お墓の場所を決めて石を注文したり、寂しさを紛らわせてくれるくらいバタバタしていました。

それまで仏壇なんてまるで興味が無かったのですが、仏壇もよく見ると、使用している木材の種類、彫刻など本当に個性があります(宗派にも関係するのでしょうけれど)。お墓の石も石の種類はもちろんですが、洋風なものから従来のよくあるものまで、その形は本当に多様です。
どちらもじっくり見て回り、母らしさが光るものを選んだつもりです。母の大事な邸宅となるのですから。

遺産相続や保険金の手続きはかなり面倒でした(外資系や共済は簡単でしたが郵便局が・・・)。こんなに面倒ならもういらないって思ったこともあります。母が亡くなって、それを夫である父が引き継ぐのに、どうして家族がこんな思いをしなければ?
母はそんなに莫大な額を残したわけではありません。もっと簡潔にできないものでしょうか・・・。

母の車(2007年4月末~5月初め)

母の専用車、母が1年前に入院してからずっと出番無しでした。入院生活が長くなり、『処分しようかな』と母が口にした時期がありましたが、家族の猛反対で処分には至らず、母の帰りを待ち続けていました。
『もう1度車の運転ができるように(なるくらい元気になる)』それを目標にしてもらいたかったのですが、叶いませんでした。

家族の話し合いで売却することになり、買取査定に持って行きました。1件目でかなりひどい金額を付けられ、『それでも良いから即決する』という父を抑えて2件目に。
2件目で査定してもらっている途中、伯母から連絡が入り、譲って欲しいとのこと。何と良いタイミング。一歩遅ければ手遅れ・・・。
母の車は伯母の元で、第2の人生を送ることになりました。

母の姿が・・(2007年5月初め)

ご近所の方から聞いた話です。母が亡くなった直後(おそらく5~10分後くらい)、入院中お世話になったご近所の方の家に母が訪れたそうです。
その方は当然、その時は母の死を知るわけもなく、どうして母が?と不思議な思いをされたそうです。そしてその後に母の死を知り、『きっとお礼を言いに来てくれたんだ』と思ったそうです。

四十九日が過ぎるまでは霊は自宅の周りをウロウロしていると聞いたことがあります。
きっとその話をしていた時も近くにいたんでしょうね。残念ながら私は母の姿を見つけることはできませんでしたが。

それと同時に悲しい気持ちになりました。私は人が死後どうなるのか、よく分かりません。ですが母が存在するということは、母は自分の死を自分で知ってしまったのでしょう。
亡くなる直前、一生懸命『治るから』と嘘をついた・・・と言うか、奇跡を信じて励ましていた部分もありますが、結果的に私は嘘つきです。そして生前よく母が言っていた『助からないなら、そう教えて欲しい』との言葉にも背いてしまったのです。
全部、母には分かってしまったわけですよね・・・。申し分けない気持ちでいっぱいになりました。

地方の風習(2007年5月6日)

四十九日を迎えるまでは7日おきに法要があります。今日もその法要があり、気になっていたことを思い切ってご住職に聞いてみました。と、言うのも昨夜、夫と話をしていて発覚したのですが、この地方は納骨の方法が特殊なのです。お骨は壷から出して、お墓の下にザーっと撒くんだそうです。
骨壷のまま収めると思っていた私や弟は相当なショックを受けました。

・・が、ご住職の答えも同じでした。

いろいろ話をしてくださるのですが、頭が真っ白になってしまい途中から覚えていません。『大丈夫ですか?』と言われてしまいました。それくらい私も弟も顔が青ざめていたのだと思います。

私も兄も既に県外に、そして弟も今後どうなるか分かりません。もし・・・お墓の移動が必要になったらどうすれば良いの?・・・ですが、誰かが家とお墓を守り続けていくものだと信じている父の前では言えませんでした。
もちろんそれが1番良いのは分かっています。でも、将来もしも・・・ってこともあるでしょう。その時は母は置き去りなの?

前々から頭の中で漠然と検討していた【母を残す】方法を本気で考えるきっかけになりました。

モーニングジュエリー(2007年5月9日)

先日のショッキングな出来事から、母を手元に残せる方法を探していました。

母が亡くなる1~2ヶ月前だったと思いますが、テレビ番組で遺骨からダイヤモンドを生成することができること偶然を知りました。その時は母の死など夢にも思わなかったのですが、母が助からないと分かった時そのことをふと思い出し、母が生前ダイヤに強い憧れを抱いていたこともあり、母のダイヤモンドを作ろうと思いました。

早速インターネットで調べると、必要な骨が予想より多かったことや金額的にかなりすることが分かり、別の方法もないかと探していました。調べてみると実にいろいろなものがあり驚きました。
最近は【手元供養】と言って、ミニ骨壷、カロートペンダント、骨を使ったオブジェなど様々な商品があるようです。しかしそれらは私が思っているものとちょっと違っていました。

さらに調査を進めると、これだ!という素晴らしいものに出会いました。早速、兄と弟に相談すると、2人とも即OKの様子。
それは・・・モーニングジュエリーです。遺骨や遺髪を埋封したジュエリーのことです。当初、兄弟3人で・・と考えていましたが、最終的に兄と弟がこちらで母の遺骨を埋封したペンダントを作っていただくことになりました。弟に関しては母の遺品のネックレスを溶解してリサイクルしました。

モーニングジュエリーの制作は京都絆屋でしていただきました。

四十九日の法要(2007年5月26日)

母を手元に残すために分骨してもらえることにはなったけれど、やっぱり気分的にどこか落ち着かず、朝からソワソワしていました。今日は母の納骨をするのです。

思いがけず石材屋さんがさらしの袋を準備してくれていたので、そのまま撒かずに、袋に移してお墓に納めました。袋に入れたところで骨の風化への影響はほとんど無いのですが、精神的には随分楽になりました。

夜になって、伯母たちと母の形見分けをしました。まだ山ほど残っている化粧品やアクセサリー、カバンなど。私がずっとバタバタしていたので遺品の整理が追いつかず、あまり準備出来なかったけど、それでもたくさん貰ってもらえたので良かったなと思います。

ネックレスとお別れ(2007年7月3日)

今日は京都絆屋さんへ母のネックレスを送りに行きました。もちろん書留で。この1~2ヵ月、郵便事故が多かったのです。伯母への手紙を紛失されたり、母の形見を破損されたり・・・。

母の形見のデザインネックレスを熔かして、母の遺骨を埋封するためのペンダントトップに新しく生まれ変わることになっています。ネックレスの形状、金属量などは事前に伝えてありましたが、実物を送付後、さらに正確な見積もりをしてもらい、いよいよ制作に入るのです。

静岡からの使者(2007年7月11日)

兄と弟は遺骨を埋封したペンダントを、私は母の遺灰ダイヤを作ることにしました。遺灰ダイヤを制作してくれる会社を2つ見つけたのですが、最初に見つけた会社のは黄色いダイヤモンド・・・オプション(追加料金で赤とか青とか色を付ける)もあったりしたのですが、ちょっと私の思うものと違うなと感じていました。次に見つけた会社のダイヤモンドは透き通った淡いブルーのダイヤモンド。制作過程で極力、不純物が混じらないようにすることで、できる色合いだそうです。母のイメージにピッタリ!一目惚れでした。

静岡の会社まで遺骨を送ることに不安を感じ(郵便事故が相次いだせいです)、その旨を相談すると、わざわざ広島まで来て下さったのです(数時間前には小倉まで行っていたそうです)。

数日中には母の遺骨をスイスの加工場へ送るそうです。制作期間は約3ヶ月程。母はどんなダイヤになるんだろう・・・。これでいつも一緒にいられます。私の墓場まで持って行こう。

遺灰ダイヤの制作はこちらでしていただきました。 →→ アルゴダンザ社

スイスへ出発(2007年7月18日)

今日、『のりこ様はスイスに出発されました』と連絡がありました。『お母様のお骨をスイスに送りました』ではなく。スイスは最古の都市クールというところに行くらしいのです。初めての海外渡航がこんな形になるとは思いもしませんでした。

母は海外旅行に1度も行ったことがなかったのです。いつか私もスイスに行ってみたい。母がどんなところへ行ったのか、この目で見てみたい。

不思議な夢(2007年7月20日)

昨夜、不思議な夢を見ました。多分、夢だと思うのですが、絶対に夢だとも言い切れず・・・。
その夜、いつもながら21時就寝でしたが、0時頃、暑くて寝苦しくて目が覚めました。ボーっとタウン情報誌を見ているとまた眠くなってきたので、1時半を過ぎて再び布団に入りました。

ここから先が、夢?現実?よく分からないのです。ふと気付くと、母が私の横に寝転がって、私の顔を見ていました。一瞬ビックリしましたが、嬉しくなって、寝転がったままで話をしました。 最後に病室で一緒に過ごした時の事。『あの時は頭がボーっとしていたからね・・』と母は言っていました。母はちゃんと分かってくれていたんだと嬉しくなりました。
母と話が出来て、とても幸せな時間でした。でも『もうそろそろ行かなくちゃ・・・』と言い残して、夢?は終わってしまいました。

夢か現実か分かりません。でもどっちだって良いんです。とにかく母に会えたのが、何より嬉しかったのです。

この数日後、伯母(母の2番目のお姉さん)のところへも深夜にお邪魔していたようです。

母の仕事場へ(2007年7月30日)

今日から帰省。真っ直ぐ実家に向かわず、ちょっと反れて母が仕事で1番多く出入りしていた店に寄ってみました。もう2年近く前になるのですが、1度だけ母に連れて行ってもらったことがありました。母の作った人形や、母に習って店の奥様が作った人形などがたくさん飾られて、手芸店かと思うような店でした。

店に入ると1番目立つところに母の作品がありました。1番目立つところに飾り、母と一緒に頑張っていこうと思っているということでした。
先日、東京の本社の先生方が来て地区研修会があり、その時も母のことが話題になったそうです。『母のような美容部員は2度と現れない』『間違いなく日本一の美容部員だった』皆がそう仰っていたとか。嬉しいことです。

言わなきゃ良かったのかな(2007年8月10日)

私が余計なことを言ってしまった為に、上の子が喜んでいて・・・困りました。ぬか喜びになってしまうからです。

数日前、『お盆って何?』と聞いてくるので、『お空の国の人が帰ってくる日だよ』と話しました。『ばぁが帰って来るの?病気が治って帰って来れるようになったのかな?ごはんも一緒に食べるかな?』と、こんな調子なのです。慌てて『お空の国行った人は帰って来ても、姿は見えないかもしれないよ』と言ったのですが。

また今日になって『もうすぐ13日だから、ばぁが帰って来る日だね』と言っています。私も決して嘘を言ったつもりはないのですが・・・変に期待を持たせてしまい・・・どうしよう。

58歳の誕生日(2007年8月20日)

今日は母の誕生日。生きていれば58歳ですが、母は永遠に57歳のままです。少なくとも母の年齢は超えられるように、頑張って生きようと思います。でもどうやって頑張れば良いのやら?と。母は決して病気になるような不摂生な生活をしていたわけではなく、むしろ健康的な生活をしていたと思います。2度も癌を患うなんて、そういう体質だったのかストレスの塊になっていたのか・・・どちらかなんでしょうね。

母は57歳のままで、私は今後どんどん歳をとっていき・・・将来、天国で会った時に、年齢の逆転現象が起きてしまっていて、私と気付いてもらえないかもしれませんね。
今日は弟がケーキを買ってきて仏壇に供えてくれたそうです。

高知へ(2007年9月22日)

今日から2泊の予定で母の故郷、高知へ。伯母の家に滞在させてもらいました。普通の旅行ではなく、母の遺品のお引越し(実家→高知)と整理のために。
もう1人の伯母が今日は外出できそうにないということで、初日の今日は遺品整理はしないで、のんびりくつろがせてもらいました。

夕飯のメインは鰹の刺身。母が病気になってから1年ちょっと、誰かの手料理を食べたことなんてありませんでした。外食をしても、何を食べても『美味しい!』と感動することができなくなってしまっていました。本当に久々に『美味しい!』と心から感じることができました。母の味がしました。

母をやっと高知へ連れて来てあげることが出来ました。闘病中もずっと帰りたがっていたから、早く連れて来てあげたかった・・・。元気な姿でだったら、もっともっと良かったのですが。

広島に戻る(2007年10月14日)

帰省中です。今日は父に頼まれていた喪中ハガキの印刷代行しました。
恐れていた季節がついに来てしまいました。母が亡くなったことをまだ知らせていない友人の方が圧倒的に多いので、ハガキを出せば知れることになります。『母が亡くなった』と人に話せば、それは母の死を認めたことになる・・・そんな感覚なので、出来ないでいるのです。『死』という言葉を口にしたくないのです。その言葉が口を突いて出てくる瞬間に、未だにものすごい精神的ダメージとストレスを覚えます。

モーニングジュエリー完成(2007年11月30日)

京都絆屋さんに作ってもらっていた母の遺骨を埋封したペンダントトップ(弟の分)が届いていました。早速、中身を確認しました。プラチナのリサイクルは仕上がり度が落ちることがあると聞いていましたが、それを全く感じさせないきれいな仕上がりでした。刻印も米粒に書けそうな大きさの文字で、きれいに入っていました。早くチェーンを手配して弟に届けてあげようと思います。

※ハート型の白い部分が窓で母の遺骨が見えるようになっています

モーニングジュエリー

母のダイヤモンド(2007年12月7日)

一昨日、母の遺灰ダイヤが完成し、送付できる状態であるとアルゴダンザ社から連絡がありました(10月末にはスイスから帰国していましたが、ジュエリー加工を頼んでいました)。貴重品なので、保険を掛けて、確実に受け取れる時間帯指定で送るということでした。

0.24ctのダイヤは予想していたよりずっと大きく、存在感がありました(当初0.2カラットでオーダーしていましたが制作過程が上手くいき、大きな粒になったそうです)。アルゴダンザ社の遺灰ダイヤの色合いは、透明~ブルーということでしたが、母のダイヤは淡い淡いブルーでした。

上の子にも説明してあげましたが、やっぱりまだ難しかったみたいで、『丸(ダイヤ)の中にどうやって、ばぁを入れた?』と聞かれてしまいました。

遺灰ダイヤ

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